第167話
時は来た! いぬをこえる。
朝起きると、意外とスッキリしていた。
昨日あれだけ飲んだ割には、酒も残っていなかった。不思議だ。
皆まだ寝ているようで、僕は朝の散歩をしようと玄関のドアを開け外に出た。
ドアのすぐ横の青いクーラーボックスのビールの値段を改めて見ると、昨日はかなり調子に乗って飲み代にお金を使ってしまっている事に改めて気付いた。
覚えている範囲の飲んだビールの本数を掛け算してみると、ツアー代金より、はるかに飲み代が高くなってる。
(うわぁ… マジかぁ。 やっちまった、、)
僕はすぐに、激しい後悔と自己嫌悪に陥った。
うーん。。頭が痛い… 気がしてきた。
心なしか、二日酔いな気がするなぁ。ハハ…
そんなちょっと泣きそうな僕は、キッチンから煙が出ている事に気がついた。
キッチンに顔を出すと、二日酔い明けに、さらに僕と遅くまで飲んでいたはずのプイさんが、朝食の支度をしてくれていた。
昨日あれだけ飲んだのに、今日はお酒が残ってはいないのか、素晴らしい笑顔で迎えてくれた。
(この人の笑顔は本当に暖かいなぁ。。)
と心から思う。なんというか、心からの笑顔なのだ。慈愛のある、なんともいえない良い顔なのだ。「仏様のお顔に近い」 …というのは流石に言い過ぎだろうが 笑
何かそんな慈味のある笑顔だ。
この顔を見れただけでも、まぁ、ビールを奢った甲斐があるな。と僕は無理矢理自分を納得させ、何とか気を取り直した。
それに昨夜、ある体験をしていた。
飲みすぎた僕は、夜中にどうしてもトイレに行きたくなったのだ。トイレは外にあるので、皆を起こさぬよう、携帯の灯りをたよりに、忍び足で玄関までいった。
外は真っ暗なはずなので、扉の前で懐中電灯をオンにしてから玄関の内扉を開ける事にしていた。
そして懐中電灯をつけ、ドアを内側に開けた僕は、ギョッとして思わず「はっ?」と声を漏らした。(幸い尿はまだ漏らさずに済んだ…)
開いたドアのすぐ下に、二つの赤い目があり、僕と目が合ったのだ。
そう。ドアの外のすぐ下に、例の赤毛の中型犬が丸くなって寝ていたのである。
玄関ドアの真下のど真ん中に寝ており、僕がトイレに行くには、どうやってもこの犬に退いてもらわねばならない。。だが、まだ犬への恐怖心が完全に払拭されてはいない僕には、彼を退ける勇気は無かった。
「ええと… ごめんね。どいてくれないかな?」
と小声で話しかけてみるが、彼は意に介さず、プイと顔を背けてまた寝てしまった。
(こんな所で寝ないでヨォ〜 うぅ。。
困った… そして、も、もう漏れそうだ。。)
一瞬プイさんを起こそうかと本気で思ったが、そんな事をしている間に僕は、水浸しになっている自信があった。何故なら僕の膀胱は今にも爆発しそうだからだ。
まさに時は、風雲急を告げている!
「 時は来た!」
なぜかその時、僕の頭には、新日本プロレスの破壊王が在りし日、あの猪木に初めて挑む時に発したその言葉が浮かんできた。
(もちろんその後ろで吹き出す武藤さんの映像も同時にだが。)
そう、あの頃の熱い新日プロレスの、橋本真也さんの言葉が浮かんできたのだ。
(そう、今だ。それだけだ。 今こそ
イッヌへの恐怖心を乗り越える時だ!)
僕は意を決して、彼を跨いで乗り越える決意をしたのだ!
勇ましく、燃える闘魂の「猪木のテーマ曲」が流れそうなものだが、実際には、
「噛まないでね。。ちょっと跨ぐだけだから…
ホント噛まないでね… お願いね、、
またぐよ〜。う〜、動かないでね。。」
情けないトーンで懇願しながら、僕は恐る恐る彼を跨ぎ始めた。
彼は声ひとつあげずに、黙って大人しくしてくれている。微動だにしない彼を僕は何とかまたぐ事ができた。
そのまま僕はできる限り彼を刺激しないように、最速の忍び足でトイレへ向かった。階段の下にトイレはあるのだが、ほとんど勘で暗い階段を駆け降りていた。
そしてトイレに駆け込む。ドアなど閉めている余裕は無い。。というか、人などいない。
そして… なんとか間に合ったのだ!
僕は、大活躍してくれた自分の括約筋に感謝しながら、至福の表情をしていた。今朝のプイさんに負けない位の「良い顔」をしていたはずである。
やがて、悟りを開いたかのような柔らかな顔でトイレから出てきた僕は、手洗い場を探すくらい余裕が戻っていた。
ふぅう。。間に合ったぁ〜。
という安心感と共に、あることに気がついた。
あれ?! これって。。あのイッヌさんを
もう一回跨がなければ、部屋に戻れない?!
という事実にである。
(またあんな怖い思いをするの〜?
うわぁ。。やだなぁ。。)
とりあえず僕は自分を落ち着かせる為に空を見上げた。雲はまた厚くなっていたが、雲間から少し星が見えた。
(そういえば… 「星守る犬」という
犬の漫画が日本にあったな。。)
ふいにそんな事を思い出した。
星守る犬かぁ。。ん? あれ?
その時、背中に電流のようなものが走った。
おぉ! そうか。 そういう事か!
赤毛さんがあそこで寝ている理由が解ったのだ。それはきっと村のイッヌ達と一緒の理由のはずだ。
彼はきっと、寝ていて無防備な僕たちを守ってくれているのだ。その為に玄関でわざわざ、番犬よろしく寝てくれているのだと。
そのことに気付き、彼に対する恐怖がすっ飛んだ。
僕は階段を再び上がり、ドアの前に来た。彼は僕が怖がらないように、顔さえ上げないようにしてくれている。
(やはり、気の利く頭の良いイッヌさんだ。)
嬉しくなった僕は「失礼しますね〜」と言ってからゆっくりとドアを開き、
「ごめんねー。またぐよ〜」と言いながら彼をサッと跨いだ。
その間彼は黙って寝たフリをしてくれている。
ゆっくりとドアを閉めながら「ありがとう」と本当に自然に彼に感謝を伝えていた。
僕は、彼と村と自然の一部に繋がっている気がしていた。自分の中にも彼を感じる不思議な感覚になり、全く彼に恐怖を感じなくなっていた。
そして僕は暖かい気持ちで、より深くこの村に抱かれるように深い眠りに落ちたのだった。
そんな事もあったおかげか、今朝は本当にスッキリとした寝起きを経験できていた。
今彼は、夜が明けてプイさんが起きたのを確かめたからなのか、少し離れた所で座っている。
僕と目が合っても、空気のように自然にいてくれる。まるで家族になったかのように感じる。
プイさんに聞いてみると、彼はプイさんの家で一緒に成長してきたという。流石にプイさんも37歳なので、20代から一緒という意味だろうが、本当の家族のように自然とプイさんの周りに空気のようにいる佇まいは、何か高貴なものすら感じた。
僕は朝食前の散歩に出た。山の朝の空気が気持ちいい。犬達は活動的では無いが、やはりそこいらにいる。
だがもう彼らにいたずらな恐怖は感じない。
感じるのはこの村の一員であるという不思議な感覚だけである。不思議と向こうもそう感じているのか、彼らも昨日ほど僕に興味は示さない。
まるで同居人として見ている様な節がある。
僕はこの二日間で、イッヌに対するこれまでの恐怖心が完全とはいえないが、かなり改善され、彼らの感覚に近付けた様な気がしていた。
ありがたい。ありがとう村のイッヌ達である。
つづく。
↑ 頭の良い、気の利く赤毛のワンさん。
人生初の犬跨ぎなど、色々と感謝しかない。
↑ 朝から最高の笑顔のプイさん。
魔法の様に酒は残っていない 笑